「Claudeに広告は載せない」。そう宣言したAI企業が、自社の広告には年々多くの予算を注いでいる。一方で、ソフトウェアで成長してきたテック企業が、生成AIを一切使わない手作りの広告に何週間もかけている。正反対に見えるこの2つの動きは、実は同じ問いに向き合っている。「何をしないか」を伝えるには、どれだけの費用がかかるのか。AIがあらゆる表現を安くした今、ブランドの価値は「できること」から「あえてしないこと」へ移り始めている。
ニュース概要:2つの「しない」が同じ日に浮かび上がった
1. 広告を載せないAnthropicの広告費が急増
2026年10月27日、Digidayは、AnthropicがIPOに向けて米証券取引委員会(SEC)に提出したS-1書類(新規株式公開に伴う登録届出書)を分析した。それによると、同社の広告費は2024年の3,300万ドルから2025年には1億4,700万ドルへと急増している。この額は、マーケティングでブランドを築いてきたDuolingoの2025年の販売・マーケティング費の合計(1億2,570万ドル)を上回る規模だ。2026年上半期も、マーケティング・広告費は前年同期より2億7,300万ドル増えた。
S-1では支出増加の要因として、製品リリースを支えるメディア出稿とPRを挙げている。あわせて、ブランドの宣伝には今後も多額の支出が必要になるという見通しも示している。さらに、他のAI企業とひとまとめにされ、取り組みの違いに関係なく一括りに評価されてしまうリスクも挙げている。eMarketerのアナリスト、ネイト・エリオット氏は、リスク項目だけで「ブランド」という言葉が50回以上使われていると指摘する。
「彼らはブランドを最大の資産の一つと考えている」——ネイト・エリオット氏(eMarketer)
同社は2026年2月、Claudeを広告なしで提供し続けると表明し、スーパーボウルのCMでもその方針を打ち出した。一方、OpenAIは同じ2月からChatGPTでの広告配信を始めている。S-1でも、競合と異なる収益化戦略を差別化の要素の一つとして挙げている。なお、このCMにはOpenAIのサム・アルトマンCEOが「不誠実だ」と反発しており、AI企業同士の評判をめぐる争いはすでに表面化している。
2. 「AIを使っていない」が広告のメッセージになった
同じ日、英国の広告メディアFamous Campaignsは、クリスマス商戦を前に「今年の広告は、AIで手抜きをしていないかが問われる」と論じた。Coca-Colaは2024年と2025年に、生成AIで作ったホリデー広告を2年続けて公開したが、どちらも強い反発を受けている。
反対に、手仕事を前面に出すブランドが増えている。主な例は次のとおりだ。
- Oura:プラハの模型職人35人が3週間かけ、「手」が歩くミニチュアの街を12セット製作した。AIを使っていないことも明言している。
- De'Longhi:映画『グランド・ブダペスト・ホテル』のミニチュアを手がけた職人と組み、実際にコーヒーを淹れられる小さなカフェを手作りした。
- Beefeater 0.0:CGを使わず、9つの実物セットで撮影した。
- Apple Music:油を張った水槽に音を流し、その波紋を撮影して新しいアイデンティティを作った。数ヶ月にも及ぶ制作過程も映像で公開している。
この流れは広告業界だけのものではない。Etsyの2026年ホリデートレンドレポートは、手作りの痕跡を求める傾向を今季の大きな変化の一つに挙げている。検索数は、手描きの商品が280%、手織りが230%、手びねりの陶器が150%増えた。記事はGartnerの調査も紹介し、米国の消費者の半数が生成AIを避けるブランドを好むと伝えている。そのうえで、「AI不使用」は広告における「オーガニック食品」のような、価格を上乗せできるラベル(プレミアム要素)になりつつあると論じている。
Spike Analysis:「しない」の値段を払えるブランドだけが残る
「しない」は、黙っていても伝わらない
2つのニュースに共通するのは、「何かをしない」ことは、黙っていても相手に伝わらないという点だ。
広告がないことは、画面を見ても分からない。AIを使っていないことも、完成した映像だけでは判断できない。どちらも、存在しないものを証明するのは極めて困難である。そのため、Anthropicはスーパーボウルという最も高額な広告枠で「広告がない」と伝え、Ouraは4分間のメイキング映像で「AIを使っていない」ことを見せる必要があった。
Branding Spikeでは、この構造を「不在の証明コスト(Proof-of-Absence Cost)」と呼ぶ。これは、ブランドが「しない」と決めたことを信じてもらうために、別の手段で支払う費用のことだ。AIで何でも安く作れるようになるほど、「使っていない」「入れていない」と信じてもらうための費用は上がっていく。
手仕事は「効率」ではなく「誓い」として機能している
Famous Campaignsは、人々が反発しているのはデジタル技術そのものではないと指摘する。CGやレタッチは、人の手が使う道具として受け入れられてきた。生成AIが反発を招くのは、職人やスタッフの仕事を置き換え、その技術を無断で使っていると受け止められているからだ。
ここで、手仕事の意味が変わり始めている。35人で3週間という数字は、「これだけ手間をかけた」という誓いとして受け取られる。これはBranding Spikeが提唱してきた「意図的非効率(Deliberate Inefficiency)」が、広告の世界で目に見える形になったものだ。効率を手放すこと自体が、ブランドの約束として機能している。
見逃せないのは、手仕事に最も力を入れているのが、Oura、Apple Musicといったソフトウェアで成長してきた企業だという点だ。テクノロジーに最も強い企業ほど、「人の手」を見せることに予算を使っている。これは偶然ではない。AIを使いこなせる企業がAIを使わないとき、その選択は「使えない」ではなく「あえて使わないと決めた」と受け取られる。拒否は、それを実行できる能力を持つ者が行ってこそ意味を持つ。
Anthropicの広告費は「均質化」への保険である
Anthropicの事例は、別の角度からも読み解ける。S-1が最も警戒しているのは、他社とひとまとめにされることだ。AIモデルの性能差が縮まるほど、利用者は「どのAIも同じ」と感じるようになる。これは、Branding Spikeが論じてきた「AI均質化のパラドクス(AI Homogenization Paradox)」がAI企業自身に跳ね返っている状況だ。
性能で差がつきにくいとき、残る違いは「どういう会社か」という価値観である。「広告を載せない」という方針は、その価値観を一言で伝えられる数少ない材料になる。つまりAnthropicの広告費は、製品を知らせるためだけでなく、業界全体の評判に飲み込まれないための保険としても使われている。
ただし、ここにはリスクもある。「しない」をブランドの核にすると、その約束を少しでも破ったときの代償が大きくなる。Anthropic自身もブログで、方針を見直す場合は理由を透明に説明すると述べている。「しない」を掲げたブランドは、その約束を守り続ける「信頼税(Trust Tax)」を払い続けることになる。
次の競争軸は「何を使わないかの開示」
2つの動きを重ねると、ブランドの新しい競争軸が見えてくる。これまでは「AIで何ができるか」を示すことが先進性の証だった。これからは、「どこでAIを使い、どこで使わないか」を自分の言葉で説明できるかが問われる。
ここで重要なのは、AIを全否定することではない。Anthropicは「AIを作る会社」でありながら広告を拒み、Ouraは「テクノロジー企業」でありながら手仕事を選んだ。どちらも、自社の価値観に照らして線を引いているのだ。AIと感性の融合とは、すべてをAIに任せることでも、すべてを人の手に戻すことでもない。どこに線を引くかを決め、その線を見せることこそが、これからのブランドの美学になる。
日本市場への示唆:「手間」を語る文化を、戦略に変える
日本のブランドにとって、この流れは大きなチャンスだ。日本には、職人の手仕事や「手間ひまをかける」ことを価値として語る文化が根づいている。老舗の和菓子店や伝統工芸だけでなく、メーカーの品質へのこだわりも、同じ文脈で語ることができる。
一方で、その価値を「言わなくても伝わる」と考えがちな点には注意が必要だ。今回の事例が示すとおり、AIが当たり前になった環境では、手仕事は語らなければ伝わらない。日本企業が取り組むべきポイントは次の3つである。
- 制作過程を見せる:完成品だけでなく、職人の手元、試作の失敗、かかった日数を記録し、メイキングとして発信する。
- AI利用の方針を明文化する:「企画にはAIを使うが、最終表現は人が作る」など、自社の線引きを社外に示す。これは「開示プレミアム(Disclosure Premium)」につながる。
- 「しない」約束を守る体制を作る:一度掲げた方針を、外注先や制作会社まで含めて守れる管理体制を整える。
特に年末商戦やブランド周年の広告では、生成AIへの反発が強まりやすい。効率化でAIを積極的に使う部門と、手仕事で感性を伝える部門を、意図して分けて設計することが求められる。「すべてAI」か「すべて手作り」かではなく、どこに手間をかけるかを選ぶこと。それが、AI時代に日本のブランドが持つ強みを生かす道になる。
